2020年6月13日土曜日

「追分」という名の喫茶店で

東京都の西の外れの檜原村に行く途中の秋川渓谷にある瀬音の湯という半官半民で建てたという評判の良い温泉が営業を再開して四日目が休館日だったのを知らずに行ったのであるが、がっかりして帰りに半年くらい前に出来た150年前の明治時代に建てられたという古民家の煤だらけの天井を取っ払って屋根裏まで実に感心するほど拭き清められ、土間と座敷を簡素なお店にしたいかにも素人が始めた喫茶店に入ってコーヒーを飲む。
つい今しがたというにはすでに2時間半ほど経ってはいたが、午前中に4シフトの介護をを終えて百人町から小滝橋通りに出て首都高「初台」に乗ってちょうど1時間後に福生の自宅で隣人を乗せその足で五日市街道の終点の武蔵五日市駅を左折してここまで約30分である。
2時間で都会の喧騒から逃れ店の裏山で放し飼いをしているという名古屋コーチンの鶏舎の前にナロードニキ号を停めた。
隣人は、少し手前で降ろしてくれと言って、道路脇の雪の下を摘んで歩いて来た。
50代の女将が愛想よく迎えてくれて少し経って、奥から60代の小柄で晩年の志村喬のような穏やかな顔をした亭主が言葉は何も発しないのであるが、ただ笑顔を湛えてゆっくりとお辞儀をしてすぐにくるりとという間ではなく程良い間を見切って奥へ引っ込んだ。
う〜む、絶妙な間合いであるなと元・武道家を生業としていた私は感心したものだった。


2020年5月31日日曜日

角刈り

 高3になって1ヶ月くらい経ったある日の午前中に担任兼現代国語の授業があった。
教師は何か黒い綿の紐で閉じたA4の画版に挟んだ10枚位のガリ版印刷されたわら半紙を綴じたものを持って教室に入って来た。
最初は何か考へ事でもしていたのか、俯き加減に入って来たのだが教壇に立って級長の「起立と礼」の号令の後、急に教壇を降りてニヤリと笑ったかと思うと持って来たその黒表紙の画版を思いっ切り床に叩き付けて70人の同級生達に向かって大声でこう言うのだった。
「ふざけるなよ、お前ら。よく考へて見ろよ、このまま何も言わずにオレの授業が始まるとでも思っていたならそれは、大間違いだぞ。おい、オサフネ。何だその頭は、すぐに教室から出て行け。床屋に行って坊主にして来るまで教室には入れないぞ。」
その剣幕に圧倒されて70人の同級生達は皆、シーンと押し黙ってある者達は俯きまたある者達は私がどのような抵抗をするのかと、大真面目な顔でことの成り行きを見守っていた。
ついこの間は、県内の全部の高校を対象に開催された現代国語の同じ設問の全国共通実力テストで私の成績が中国と四国地方ではトップだったことで、教師も同級生達も同様に私に一目置いていた。
なぜ、私は校則を破ってまで5分刈りの坊主頭の髪の毛が少し伸びて来て艶々と黒光りする太い杉の木の枝のように密集した僅か1センチ程の髪の毛を「角刈りに出来るかなあ?」と行き付けの床屋の力道山を小さくしたような町内会役員で私の父親と仲良しのおじさんに尋ねてみたのだった。
床屋のおじさんは、ほんの少しだけニヤッと笑って「できるよ。」と答えてから黙々と長いハサミでチョキチョキと丁寧に、当時の謂わゆる「不良」のように角刈りにしてくれたのだった。
昨日のその床屋まで、高校から自転車を走らせて行く前に一度家に戻って、母に「やっぱり丸刈りでないとダメだったから。」と言って、もう一度、散髪代をもらい、近所のその床屋で「急いで丸刈りにしてください。」と頼んだのだった。
いや、当時の私はバツが悪いというような感情はこれっぽっちも持ち合わせていなかった。
床屋のおじさんも、ほんの少しだけニヤッと笑って「アイよ。」と、チョキチョキと手際よく丸刈りにしてくれたのだった。
それから、30分位して教室に戻ると教師も70人の同級生達も何事もなかったかのように私を待っていてくれた。
そして、何事もなかったかのように教師は「それでは、教科書の何ページ目を開いて下さい。」と、いつも通りの授業が始まったのでした。
(了)


2020年5月7日木曜日

私のアップライト🎹について

 私のアップライト🎹について語ろうとする前に、イントロダクションとして
私の70年代におけるフリージャズバンド「アニオタ」について話して置かねばなるまい。
 言うまでもなく、と言うよりも、「言うまでもなく」という「アニオタ」の常識は誰も知らないので、ここでは止む無く説明しなければならないことになってしまうのであるが、当時の熱心な且つ数少ないファンの1人で20年位前にカリウムを毎日100錠くらい飲んで遂に廃人となってしまったアングラビデオ界では知る人ぞ知る〇〇君が亡くなる3年位前だったか、電話で私にアルトサックスを習いたいと言って来たのを思い出しながら書いて置くのであるが、当時も今も相変わらず、フリージャズの演奏方法について「あれはただムチャクチャに演奏すればいいのですよねえ。」などと言うのがまるで当たり前のように大きな顔どころじゃなくって、幅を効かせてなんていうもんじゃあないよ。バカにすんなよなと当時も今も私は世界の果てでただ一人になっても心の隅っこで唇を噛んでそう呟いている。
〇〇君にだけだと思う。
私の演奏方法について「心のままに演奏すればいいのですよ。」と教えたような気がします。
もう一つ、寓話のような一場面について話して置こう。
私の私小説「パレスチナに献花を」をれんが書房新社からKという出版業界でも特に奇特な人に出していただいた2013年3月30日に日比谷公園かもめの噴水前の「檜森孝雄を偲ぶ会」で横断幕と大型パレスチナ旗を張ったやまももの木に向かって吹いたアルトサックスはその頃、生活のために肉体労働でアルバイトをしていたビル解体現場の廃棄物の中から見つけた焼け焦げてタンポは全部焼失しているようなとても正気では吹けないような代物の旧・日管製 アルトサックスに唄口だけ御茶ノ水駅前で1万円位で買ったエボナイトのセルマーのジャズ用だったが。これは、私にとって正しく昔取った杵塚だった。
凄い演奏だったと私自身が一番感動している。
だけど、その場にいた仲間も誰も皆んな理解に苦しんだと思う。
だけど、もし、その場に「アニオタ」のバンド仲間の誰か1人でもいてくれたなら、いや法政大学学生会館大ホールで70年代におけるニュージャズシンジケートの「アニオタ」を聞いた ことある人が1人でもいたなら、おそらく駆け寄って来て涙ながらに「良かった。」と私の両手を取って握手をしたかも知れない。
あり得ない演奏だったと人は思うのかも知れない。
だけど、私にとっては少しも恥ずかしいことなんかなかった。唄口から吹き出される満身のブレスが私の左手と右手は全ての穴を塞いだつもりのアルトの隙間という隙間から唾液の飛沫にびっしょり濡れていた。全く計算などされてないタダの悲鳴であり怒号であり嗚咽であり苦悩だけがそこにブチまけられたのだから。
ただの10分間にも及ばない時間だったけど、永遠という神と相見えるには充分だった。
ヒモリ氏が乗り移っていたのではない。
私が彼に向かっていたのだ。

さて、水平思考で申し訳ないが、大学2年になる直前の春休みに私は、多度津にある少林寺拳法連盟本部のまだ新築されたばかりの頃の桃陵公園の一角に聳え立つ錬成道場で開祖宗道臣師家の前に膝まずき私の恩師である岡山道院長の小池先生とともに面談した後、許可を得て1週間位、麓の古い旅館に泊まり個人合宿として、昼は事務局の手伝いをして夜は週3回の本部道場で道場長の中野益臣先生の指導を受けている。25年後に私は、日本武道館の全国大会で審判員をしていた頃、中野先生と小池先生と3人で話した時に、当時の本部道場での私のことは覚えては居られなかった。ただ苦笑されて居られたのが印象的でした。
しかし、当時、開祖の側近で執事だった錬成道場事務局長の三崎先生が横須賀道院を開いた後、何があったのか、小田急線百合ヶ丘の辺りの木賃アパートに隠遁されていた頃、訪ねたことがあるが、私のことを何となく覚えて居られたのがやはり印象的でした。

私は1966年の春、甲府に戻り、それまで4〜5人で始めた同好会を大学支部として認可されてから、新入生が20人位入部していた。
順風満帆のスタートだった。
その頃、週に2〜3回1名ずつ法学部の講義が終わった後、同級生を誘って甲府市内の珈琲通の小さな店でざっくばらんな世間話に花を咲かせるという企画を一人勝手に6ヶ月は続けたように思う。
その時に、田中丸くんという同時期に文化サークルに新聞部を創った同級生も誘っているのだが、彼に将来の夢は何かと 聞いた時に、「田中丸運送という長距離トラックの会社を興したい。」と大体当時は皆、坂本竜馬みたいなバンカラで自分の人生の夢を語ってくれたものであるが、私が50才を過ぎた頃、長岡市から冬の間だけ出稼ぎみたいな格好で来ていた中古自動車販売業のマルタ自動車の社長が85才で行田市内の道路の真ん中でクラウンの運転席で身体が動かなくなって大往生したのに立ち会ったことがあるということを話したくて、その前置きの説明の方が重た過ぎて、私の場合はと言うべきなのでしょう。
本当はどちらも同じくらいに重たいのですが。 それに、20才の朝露の軽さと言ったら50代になっても同じことなのです。
ええ、今でもそうです。
70代になっても同じです。

だけど、あの軽さとは違う。
21才の秋に、どんな学内闘争も全部が政治闘争であることに気が付いた瞬間のあの清々しい軽さのことだ。
22才の秋の深夜の郷里の中央公園で10代の男女のブルースバンドの仲間に入った時の私自身に言い聞かせるように内心呟いた「これは第3の青春なのだ。」というフレーズの軽さのことだ。
24才の早春に3ヶ月前に父に新車で買ってもらったバイクを売って家出の費用にした時の軽さのことだ。当時新刊のハードカバーの夏目漱石全集やコレクター向けに刊行された萩原朔太郎の「月に吠える」という復刻版のペーパーナイフ付きの詩集を古書店に売って家出の費用にした軽さのことだ。
25才の時にまた郷里に戻って叔父の測量会社からの給料を全部叩いて当時ジャズの手解きに通っていた津島音楽研究所で買った中古の柳沢のアルトサックスも27才の時にも性懲りもなく3度目の家出をするという数ヶ月前に給料を全部叩いて買った仏製ビュッフェクランポンのテナーサックスも早稲田の大隈講堂前のたこ焼きの屋台をやっていた状況劇場の劇団員の下請けでやっていた頃、阿佐ヶ谷の木賃アパートに4〜5人で住んでいた頃、バンド仲間から買った仏製セルマーのテナーサックスも恋人が買ってくれたヤマハのソプラノサックスも何んと言えば良いのか、次から次へと質屋に入れて何回かは出したり入れたりしたのだが、とどのつまり全部流してしまったあの泣けるものなら泣きたいはずなのに涙も出ないだらしのない軽さのことだ。

24才の時に、甲府に戻った時の軽さと言ったらもうまるで夢のようだったなあ。
甲府駅北口にあった篠原工務店で社長と奥さんと私の3人で毎朝、朝食を取ってから私は会社で買ってくれた日産サニーで昇仙峡の奥の観音峠の砂防ダム建設現場に通っていた。
新日文の生保内育氏のお姉さんが社長の奥さんだった。
生保内育氏は専務と呼ばれていて、三菱デボネアに乗っていた。
元陸軍大佐だった社長を乗せている時は、生保内育氏は人が変わったように無口だった。
ああ、人生が2度あれば。
私は、たった1ヶ月で社長の奥さんが「そうかい、そうかい、それがいいよ。」と目を赤くして奥さんの和服の袖で涙を拭きながらそう言ってくれた時の、「郷里の家にまた帰ります。」と告げた時のあの軽さのことだ。
 社長は、その後、会社を畳んで、郷里の徳島のアパートで、火事で焼死したと聞いた。
 
古き良き時代というのは本当にあったのだろうか?
1930年代にヨーロッパの都会を走っていたオースチンセブンに乗っていた中流階級の人々の皆んなが必ずしも幸福な人生を送ったとは限らないだろう。なぜならその時代は第一次世界大戦や第2次世界大戦という人類にとって無茶苦茶なオゾマシイ負の遺産を残しているのだからね。
だけども、文壇も画壇も書壇もあらゆる権威から無縁でいてそれでいて誰もが舌を巻くような誰もがウットリするような詩や絵や書を書いて彼らの最高権威者が「お前のような才能が現れるのを待っていたぞ。」と彼らの文壇も画壇も書壇も何処の創始者たちもが最高位の席を「さあ、ここが君の席だよ。」と両手を広げて迎えてくれていたというのに。
「馬鹿な奴だ。」と多分言われたことだろう。
どうして我々は、そこを去ったのかって?
どうしてそんな汚らしい最底辺以下の職業を選んだのかって?


長年の間、瑞穂町武道館で少林寺拳法スポーツ少年団活動の中で地域の小・中学生に柔道の受け身や剣道の打突も混ぜて少林寺の中心思想である拳禅一如と守主攻従の教えを法形演武と自由乱捕りの練習や宮本武蔵の五輪の書や林芙美子の絵本猿飛佐助と古典仏教を混ぜた私自身の青春物語のような法話にして伝えようとしたことを思い出しながら

4年前に、四谷保健センターの大学を出たばかりのような若い保健師さんから「何処の事業所もやりたがらない。ヘルパーはすぐ辞める。児童虐待で警察にマークされている。」という精神障害のシングルマザー2名と、それぞれの発達障害の子供3名の家事援助と身体介護と通園通学のための移動支援を依頼されて。

須賀神社の厚意で境内駐車場を待ち時間に利用させてもらいながらそこであることに気が付いたのです。支給決定の時間外に、当事者家族を乗せて 日比谷公園に行くと偶然なのか必然だったのか年に1度の全国鉄道祭りをやっていて電車オタクの発達障害の小学生は普通なら両手を上げて大喜びのところなのに何故か見て見ぬ振りをして実に微妙な反応を示したものです。

早朝6時にいつも通りに到着すると境内駐車場で3才の混血児が「ママがいない。」と大粒の涙をいっぱい流した後のような顔で訴えていました。
アパートのドアを外から鍵を掛けて更に中から3才の子供が押しても開かないようにドアの外に10リットル入りの飲料水の箱を2箱積んでありました。程なくして
サイコシス・シングルマザーはバイト代の高いホステスのアルバイトから帰ってきました。
「私は児童虐待なんかしてませんから。」と私を見るやそう言い放つ無自覚な母親でしたが。

ヘルパーの自家用車が国産軽四であるか又は宝くじや赤い羽根や競馬や競艇や銀行から寄贈された国産の福祉設備のある車両であるか、あるいは、ただのベンツなのかそれとも私のオースチンミニなのか、意見は分かれるだろう。
だけど、よく壊れる古い私のミニを自分の家の庭先で修理しながら乗り続けていると私が担当している何処か壊れている障害者(児)と何かが共鳴し合っているような気がしてなりません。いいえ、もともと人は皆、何処かが壊れている生き物のような気さえします。
たまに4ドア国産軽四で行くことがあるのですが、あまりの快適さと楽チンさに不思議な恐怖すら覚えるのです。ショックが、ドノーマルの性か80キロ以上出すとフラついて完全な制御は難しいことに気がつきます。
それに比べるとオースチンミニの場合は4人乗る時や生協で買った食材を後部座席に乗せるときなど2ドアが不便に思ったりすることもありますが、足回りが国産軽四とは決定的に異なることから80キロ以上の高速走行で代え難い信頼性に気がつかされます。
もし、また自爆事故や交通事故を起こすとしたなら、極限状況で制御不能になるのは国産軽四だろうと確信犯的にそう思う。
エンジンがコンピューター制御されているし、ミッションがATだし80キロ以上出すと足回りがフニャフニャだからね。
世界史の覇者であった英国の1930年代を舞台にした私と同年輩の「主任警部モース 」と言う連続テレビ映画に出て来る当時の車や風景に何か言い知れぬ感動と物語りの中に隠されたある重要な寓意を感じずには居られないのです。
おそらく毎朝、午前6時に駆け付けて来て1日に16錠も精神安定剤を飲む母親の代わりに台所で子供たちの食事を作ってくれ、食後はあやしたりすかしたりなだめたりしながらお爺さんのちょっと普通と違う小さくて変な顔をした極小の外車でアパートの周りを一周したり歌舞伎町の角のうどん屋の前に路駐して(午前9時までは無料なので、)家でグズって朝ご飯を食べない日は、温かい素うどんを食べてから、学校までお墓の横を通る時にいつも幽霊とドラキュラが混ざった作り話をしながら最低20分以上は歩くのです。その一緒に歩く時間だけが新宿区障害福祉課の地域生活支援事業の30分以内という最低単位でいただける「移動支援」の助成金なのです。家の周りを一周したり歌舞伎町の角のうどん屋に行って来たりは、ヘルパーのボランテイアになります。

でも、このボランテイアももう2年越しで申請していますが、福祉有償運送事業として今年はやっと認可に漕ぎ着けそうです。ただ、周囲の目は厳しいと思います。「精神障害者や発達障害児を乗せています。みにくいアヒルの子です。」と私のオースチンミニのドアに書いてもおそらく誰も奇異な目をして見るでしょう。なぜ、オースチンミニなのか?誰も理解などしないと思います。それでもおそらく彼らの人生の中である日の朝、必ずフト思い出してくれると思います。昔、家に来て朝ご飯を作ってくれた優しいお爺さんがよく乗せてくれてただ意味もなく家の周りをグルグルしたり、歌舞伎町の角のうどん屋で冬の朝、温かい素うどんをよく食べさせてくれた変な顔をしたもの凄く小さな車だったのだけれど、あの車は、オースチンミニ850クーパーだったのかとね。その時、大きくなった彼らが英国文学や「主任警部モース」という連続テレビ映画を見てくれたら、その時は、おそらく私はもうこの世にはいないのだろうが、空の上の高いところで君を見てきっと微笑んでいることだろう。

私が初めてグランドピアノを弾いたのは、某国立大の講堂に深夜1人で忍び込んだ時だった。最初はなるべく小さな音で海原の波を思い浮かべながら、それでも全部のキーを使って10本の指だけでなく肘や腕刀も使って抑揚のある押し殺した演奏だったのだが、夜警が来ないと分かると次第に激しくなって1時間半くらい、これでもかという位の大音量を大講堂に響き渡らせてやったものだった。それから1ヶ月も経たない頃、アニオタ結成前の蝉丸君を連れて2人で忍び込むということを何回もやっていたら、ついに優しそうな夜警のお爺さんがが懐中電気を片手にやって来たのだった。
だけども、とにもかくにも、蝉丸君の喜びようと言ったらなかった。「長船さん、すごい、すごいよ。すごいフリージャズピアノだよ。その弾き方でいいぜよ。」って、まあ、彼と交代して弾いてもらうのだが、ヤツのピアノにはどんなに自分を自由に解放しようとしても、ご幼少の頃に習ったクラシックの弾き方や謂わゆるジャズの弾き方が邪魔をしているのが明らかにありましたがね。


(この項は続く、)

2020年2月2日日曜日

1・31NIKKEI春秋「ゴーンと岡本公三」から



ゴーンがレバノン人だったとことは、
大方の日本人が知らなかったと思うが、
私も知らなかった。
(日産の多くの従業員は知っていたのかも知れないが、)
パスポートを3つか4つ、つまりフランスやレバノンや日本や(米国も)などの
ものを持っていたことは、今世紀に至る世界史を紐解くまでもなく
あり得ることだと思っている。
問題かと思うのは、この筆者が
レバノン政府公認の「日本赤軍」の岡本公三氏を
対置して2人共「偽りの安息」だと結論していることである。
さて、世界史がいずれ証明してくれるのであるが、
さて、国境というものが本当になくなった世界が
来た時、それはまさしくドイツにおける壁の崩壊のような
そして今も死と隣り合わせで地中海を渡る多くの
難民と言われる人々のような
そして何十年もイスラエルによって浸食され続ける
パレスチナの人々のような
そういったヒューマニズムを軸とした視点が
この筆者の文章には感じられない。






2020年1月23日木曜日

寄稿「続・全共闘白書」感想 (三上治さんから)


『続・全共闘白書』(続・全共闘白書編集実行委会「編」)

(1)

 今年は1960年の安保闘争から60年目である。人間の歳でいえば還暦を迎えてということになる。この年の初めに届いたのが『続・全共闘白書』である。この本が刊行されることは知ってはいたが、700頁を超える分厚さと共に年明け早々に届いたのは驚きだった。僕にも本書のアンケート依頼は届いていたが、忙しさにかまけてか、僕は返答をしなかった。そんなこともあって直ぐに読んだ。ここは俺とは違うな、ここはそうだよね、と自己問答をしながら、自分もまたアンケートに答えるように読んだ。全共闘運動の事を色々と想起して楽しかった。そして長年にわたって考え続けてきた全共闘運動のことをあらためて考えた。かつて全共闘運動に関わった人、それを外部から知り、興味を抱いてきた人、それぞれに楽しく、興味を満たしてくれるものだと思う。

 この本の前には『全共闘白書』(新潮社)がある。「二十五年目の全共闘」としてこの本は大きな反響を呼んだ。あれから、二十五年を経ての『続編』というのがこの本である。これはアンケート(かつて全共闘運動に関わったと目される5000人余に依頼をしたらしい)に答えた450超の回答からなっている。全共闘運動の体験者たちが、かつての運動について、それを媒介にしながら現在の諸問題をどう考えているかが語られているのだが、この本は全共闘運動の体験者でなくても読めるものになっている。

全共闘運動といえば小熊英二の『1968』(上・下)(新曜社)がある。これは上下で2000頁にもなるものであり、全体的な考察になっているが、それにくらべれば、このアンケートの回答による構成は違っている。しかし、この本は『1968年』とは違う読み応えもある。この理由は全共闘運動が多様で理念や言表を与えきれないものだった、ということからくるものだ。運動の渦中にある時に、その運動の主体的な担い手は何をやっているのかわからないものとしてある。この運動が何であり、どういう意味を持っているかなどはある程度、時間を経てしかつかめないことがある。だが、全共闘運動はその構造というか、運動自体がなんであったのか、抽出しにくいところを持っていた。そういう他ないところがあったのだ。小熊英二の『1968年』は全共闘運動に関わった面々からは評価は芳しくない。僕の周辺の人たちは大体のところそういう評価が多かった。これには彼の全共闘運動を析出する方法(切口)によると推察されるが、同時に全共闘運動を全体的なものとして考察することが難しいということもあるのだと思う。こうしたことは運動の渦中でも気づかれていたことでもある。

例えば、バリケードの中で得た自由や解放感、あるいは実力行動(ゲバ棒をかざして行動)の持つ緊張感、それが実存感覚としてあったものは、概念や理念、つまりは言葉や理論的な表現にはなりようがなかった。言葉や理論的な表現にすれば手から砂がこぼれ落ちるようなものとしてあった。

これらは全共闘運動の体系的な全体的な表現を拒んできたものであり、ある意味で体系的で全体的な表現としては答えることは不可能なものだった。こういう表現を拒んでいることが全共闘運動の革命性であり、反芻を繰り返すかたちで諸個人の記憶として現在まで残ってきたものといえる。アンケートによる回答というのはこうして事態への対応としては優れた方法といえる。

(2)

アンケートは問1(全共闘運動あるいは何らかの政治社会的運動に参加しましてか。ア、一般学生として参加 イ、活動家として参加 ハ、参加しなかった 二、参加も評価もせず ホ、その他(自由表記、以下同)から、問75(最後に、今だから話せる当時の事、今こそぜひとも伝え遺したいことをご自由にお書きください)までの設定になっている。この設定を作った呼びかけ人は苦労したと思うが、これは全共闘時代の総括というか、対象化が含まれているのだと思う。このアンケートの回答には自由な表記が許されていて、アンケート方式の制約に対する考慮が施されているのはよかった。自由表記は本書に彩を与えている。

この設問に対して(そのある部分についてだが)疑念を阿部知子は呈している。

阿部知子は衆議院議員(立憲民主党所属)で医師であるが、東大時代はフロントに参加していたといわれている。ちなみにフロントとは社会主義学生戦線と言われた新左翼系のセクト(政治集団)で仙谷由人などが在籍していた。彼女はこのアンケートの問30、問31、問32は意味がない、もしくは不適切、と指摘している。この問30は「治る見込みのない病気になった場合、最後はどこで迎えたいですか」。問31は「治る見込みがなく死期が迫っていると告げられた場合、延命治療をどうなされますか」。問32「終活」「死に向けての準備」はなされていますか。されている方は具体的にお書きください。この30.31,32には老齢期を迎えて迫りくるように見える死の問題にどう対応しようとしているのか問いだが、この設問、事態に意味がない、あるいは不適切という指摘はなるほどと思った。この阿部知子の指摘は全共闘世代(経験者)が死についてどう考えているのか、という問いかけであり、彼女の答えでもあるように思う。

僕は少し前に西部暹の死(自殺‣自裁)に驚き、違和感を持ったことがある。彼の自死(自殺・自裁)は意志による選択という死生観によったものだと理解しえたが、この意志による死の選択というこことに疑念をも持った。西部はしのびよる老いとそのもたらす事態に意志的な死で対応するということを語り、実践したのであるが、彼には想像力で引き寄せた老後の状態や死のイメージあり、それに対する意志としての死をもってたいしたのだと思う。死はそれぞれの諸個人のありようであるかぎり、どうこういうことはないと言えるが、死はまた文化様式の問題として関係してくる。その意味では西部の死を肯定しえないと思ったのである。日本には死についての文化様式がある。最も見事に死ぬことが最も見事にいきることだという死生観であり、死についての宗教である。これは戦争での死を根拠づけるものだった。

この死についての文化様式は全共闘運動の時代でも影響力のあるものとして残っていた。その一つの行為として三島由紀夫の自裁があった。この行動は衝撃だったが、こういう死に方に疑念を持った。三島の意思的な死の選択は人間の自由な行為(死の恐怖の克服としての意志的な死)という考えだが、これには疑念を持ち、これには抗わねばならないと考えた。少し、後の連合赤軍事件のときもこのことは考えされたものだった。連合赤軍の粛清劇は死(生)の恐怖を克服するものとして起こされたと考えたが、この時、僕は森恒夫等には日本文化の様式としてある死についての思想から自由ではなかったし、それと抗おうとはしなかったと推察した。三島由紀夫の死生観と地続きのように思えるところがあるとおもった。僕らは全共闘運動の中で死(生)についての問いかけをしていたが、僕は日本と文化様式としての死についての考えには抗ってきた。阿部知子の設問への批判から、僕らの死生観の問題、それは生き方の問題でもあることの提起を読んだ。ここの設問はどうだったよかったのかとも考えた。もちろん、これといった設問が浮かんだわけではないが、ここは考えさせられる箇所だった。

(3)

多くの人の回答を読みながら様々の事を想起した。鬼籍に入ったありし日の友人のことを思い浮かべたのだが、雑誌で読んだ重信房子の歌を思い出した。彼女はこのアンケートにも回答を寄せている。問75には長い回答を寄せているが、僕は彼女がある歌誌に寄せていた歌を思い出した。「マルクスやトロッキー読み吉本読みわたしはわたしの実存で行く」(歌誌『月光』62)。この歌はいつごろのものかわからないが、一瞬にしてあの時代のことを思い起こさせたのだ。全共闘運動の中で僕らは当時、行動した。と同時にマルクスやトロッキーや吉本の本を読んだ。この二つは同時的なことだった。そしてある意味でその関係に矛盾も感じ、苦しんだ複雑な構造を持っていた。重信はこう記している。「おしきせから自由へ!私自身、自分の考え通りに、自分らしき生きていいのだ、と解放感いっぱいでした」。わたしはわたしの実存で行くとは自分の現存感覚や意識を表出だった。重信は、また、「社会にそういう空気が伝搬し、新しい社会の空気を創りだしたのは、全共闘運動でしょう、リブや、文化、生活の変化の兆しとなったと思います」と記しているが、この自己意識の表出は運動となってあわわれる。これは自己意識の表出が、社会の中で可能となり、その社会関係をどうするかという指示性を持つことを不可避にするからだ。人間の人間的な意識の存在とその表出は人間の生み出した社会の中で可能となるものだし、それは社会のあり様を問うものだ。それは逆にいえば、人間の自己意識の表出ということが、社会や国家の中で抑圧され、疎外されるからだと言える。自由に生きる、わたしはわたしを生きる、いわば主権を生きるということは現存の国家や社会と衝突し、その変革(保守)を余儀なくさせる、運動はそこでうまれる。マルクスは共産主義とは何かを問われて、それはイデオロギーのことではなく、運動の事であり、その中で生成して行くものだと述べている。

運動は諸個人の表出の意識の表出を基盤にしながら、同時にそれが可能な社会に社会を変えて行くことである。全共闘運動はあの時代の学生たちの意識の表出を実現したし、それこそが、運動の展開となったものだった。その運動を構成した諸個人は多様な存在だったのだと思うが、重信の回答にみられるものが、一般化できるものだったと思う。ただ、全共闘運動が運動である以上は伝統的な革命運動と関係するほかなかった。それはここで、重信がマルクスやトロッキーを、吉本を読みといっていることである。ただ、伝統的な革命思想に従えばよいのではなく、その抑圧性を目のあたりにして、それの革命をも意識せざるをえなかった。そこが特徴的なことだった。伝統的な革命思想の革命的批判という段階を超えて、革命思想を革命するということであり、これは厄介なことであり、現在まで引き継いでいることとしてある。

全共闘運動(反戦運動を含めて)はバリケードや急進的な行動で、つまりはこうした運動形態で当時の学生たちの意識の表出をかなりのところまで実現できた。個々の集合、意志的な行為としての意識の表出は伝統的な革命思想の抑圧に抗してそれを実現した。かつて吉本隆明が全共闘は「天皇制的なもの」「共産党的なもの」を壊したと評したものだが、革命思想を革命するという課題は未完のままに放置してきた。そうせざるを得ない程に厄介なものだったのである。それは伝統的な革命思想が無意識も含めて遺伝子のようにあり、そこから自由になるには大変なものだったのであり、僕の中にも後遺症のように深く残っている存在だった。

このアンケートでいえば、問5当時、全共闘運動あるいは何らかの社会政治運動によって革命(あるいはおおきな社会変革)が行われると信じていましたか。問6社会主義は有効性失ったと思いますか。というあたりのことにことになるのだろうと思うが、僕は本当の社会主義を模索するという考えに疑念を持ちながらもそこに囚われていた。現在はこの考えは薄くなっている。国家権力をどうするか、それをどう制限しるものに変えて行くかということ、つまりは自由や民主主義を実現するかが差し当たっての革命(政治革命)の課題だと考えている。本当の自由や民主主義とは何かということの探究が課題になっている。当時、1960年代に本当の社会主義を求めたことは現在も消えたわけではないが、あの時代に僕らは本当の自由や民主主義について考えるべきであり、特に政治的にはそうすべきだったという思いが強くある。全共闘運動は大きなくくりで言えば、本当の自由、別の言葉で言えば主権の発現だったと考えている。そこは誰も思想化してはいないが、その概念で包括できると思っている。

僕は丸山真をとは違うが自由や民主主義を永続的なもの考えるようになった。歴史段階的なものとは考えなくなっているがことだが、そのことを考えながらこのアンケートを読んだ。当時の僕らには歴史は社会主義段階に来ている、自由や民主主義の段階は過ぎたという考えが強力に刷り込まれていて、それを前提的なことと考える思考が強かった。これはロシア革命の影響がもたらしたものであり、革命概念を含めて考え直すには時間がかかったが、当時からこの概念に疑いは持っていた。この問いを読みながら思い浮かんだのは二つあった。

一つは当時、僕らは時代を過渡期と認識していた。これを綱領的認識に高めるために、当時のブンドの綱領委員会で討議したことがある。1968年段階のことだが、話はかみ合わなかった。多くのメンバーが現在の世界をロシア革命から資本主義から社会主義の段階に入ったというのを前提にして疑ってなかったからである。資本主義社会が帝国主義段階と規定されることから次の段階に入ったと考えている点では共通していたが、ロシア革命が社会主義革命ではないことはもちろん、その段階で世界は社会主義を含む過渡期に入ったという認識を僕は持っていなかった。ロシア革命後に流布されてこの世界観に多くは拘束されていて疑わないでいた。

 もう一つは当時の新左翼の指導部の面々は当時の急進的な行動が革命(旧来のいみでの権力交代)に結びつくとは考えていなかったということである。機関紙などで宣伝していたことは宣伝であり、現実認識としてはその程度のことは有していたのである。その意味では赤軍派は観念的(空想的)だったし、それはどの指導部の面々もみていたことだった。革命の概念やイメージのとらえ直しということをどこまで意識していたかは別にすれば、政治党派の面々も全共闘運動が革命に結びついていくとは思ってなかったし、その程度の現実認識は有していた。

(4)

このアンケートで興味深かったのは暴力革命という考えの否定が多いかったところだ。連合赤軍事件を契機に運動から離れたという人も含めてこの点は興味深かった。僕らは大学のバリケードやゲバ棒闘争などを暴力革命の観点でみていたのだろうか。このアンケートでも記憶に残る闘争として取り上げられているものに1967108日のゲバ棒による闘争の展開がある、108羽田闘争である。この闘いは僕らの反権力意識や社会的な疎外感などを表出させ、緊張感と解放感をもたらした。これは1968年の1021日まで高まっていくが、これを暴力革命の思想に結びつける傾向はあり、盛んに暴力の概念も含めて議論された、当時、僕は実力闘争ということでこれを概念化していた。これを当時のブンドは「組織された簿力」という言葉を使ってこれを理念化していたが、それとは違うと思っていた。実力闘争いう概念は暴力革命とは違うものだと考えられていた。暴力革命の萌芽と考えることには齟齬を多くの人が持っており、実力闘争の概念で区別しようとしていた。この辺のことは赤軍派の登場でかき消されていくが、伝統的な革命思想ではなく、急進的行動を根拠づけようとした試みは存在していたのである。革命思想としては暴力革命という思想しかなかったのが当時の実態だが、この概念とは違う形で行動をとらえようとした部分はいたのであり、このところで言語表現も理論的抽出も難しかった。赤軍派が登場したことで学生たちのこの行動を暴力革命の観点でこうした行動を位置づけることの空想性は明瞭になった。だがこの問題は残った。暴力革命という左翼ならば疑いのなかった思想が、全共闘運動の中で疑われたこともあったのであり、それは急進的な行動の別の理念化であった。暴力革命か非暴力的革命かはその時の体制(権力)の問題であり、暴力革命という形態を取らないで権力を変えて行くことは未知のことかもしれないが、可能なことである。全共闘運動の中でこういうことは考えられようとしていた。

このアンケートには多岐にわたっており、それぞれでおもしろいが、後半のいくつかの項目には特に目がいった。憲法の改正問題、平成天皇の評価の問題などである。全共闘運動の時代は憲法のことは論じられなかったし、それほど意識にも上らなかったことだ。特に憲法9条のことが論じられはしなかった。その点で憲法の問題は全共闘運動以降の問題にされたのだが、これらの回答は平成天皇の評価問題を含めてあらためて論評したい。ともあれ、全共闘運動を想起するにしても、現在の問題として見直すにしろこの本は格好の素材だと思う。

 


2020年1月13日月曜日

水田ふうの友人たちへ

1970年代初頭に私が郷里を出奔して放浪の旅に出た時、最初に訪ねたところが大阪のサルートンという小さな都市コミューンだった。そこで1ヶ月半位だったが、風さんや月刊「自由連合」の編集長なんかと岡山県の新見市の山奥に岡山大農学部のI氏が3千坪借りて始めた備北コミューン(現・弥栄の郷)の第一次援農に参加したりその後もずっとパレ献の故・桧森氏も最晩年の1年間に毎月(月に2度の時もあった、)風さんと故・向井氏に会いに行き何日も宿泊した岐阜県犬山市でこんなこと(要介護5)になっているとはツユも知りませんでした。何もできませんが、せめて些少でもカンパさせていただきたいと思い同時に私の小さな友人のグループである(パレスチナに献花を)とここFaceBookの友人たちに中島雅一氏(アナキズム同人誌「黒」同人)からの経過レポート「入院の前と後のこと」)を回覧させていただきます。
中島雅一氏からの呼びかけ文及び経過レポートを私のブログ「随想録」に掲載します。






2019年7月17日水曜日

私の幸福論(2000年に京大会館で、)

少しずつ薄れゆく愛惜しい記憶の断片を追いかけようとするのですが、もうよくは思い出せずあれは幻想だったのかと思われるほど自信のない何処となく物語めいて行くとますますこれはマズイと昔、1962年の中学3年の冬に田舎の屋根裏部屋の自室の机に向かって当時の新製品だった松下電器の暖かい膝掛け付きの電気スリッパを履いて、用意万端だったはずが気がつくといつも参考書に涎を垂らして気持ち良く眠っている自分に気が付いてやはり当時からマズイという気持ちは持っていたようですが、スゴスゴとノートを閉じて階下の祖母の寝室に入り一頻りラジオから流れる浪曲や講談の音量が気になって、「音を下げて。」と隣の寝床の中から背を向けたまま満を時して訴えるのであるが、祖母は「はいはい、わかったわかった。」と言いながらラジオのボリュームを少し低くしてはくれるのだったが、今度はそのラジオの小さい音が気になって、結局、その浪花節の番組が終わるまで寝入ることができないというのが常だったような気がします。
さて、2000年に京大会館であったユセフ檜森の関西追悼集会の夜のことです。今から新幹線に乗っても東京駅からそれぞれの家までの終電車が終わっている時間になるので僕ら8人は集会実行委員の方が見つけてきてくれた荒神橋を渡ったところにあるビジネスホテルまで歩いて行ったのでした。
ホテルに着くと実行委員の方が気を効かせて用意してくれた(ような気がするのであるが、)缶ビールと椀カップの日本酒に柿ピーや裂きイカやちょっとした燻製のようなものをセミダブルのベッドの上に新聞紙を広げて並べてくれたかと思うとすぐに彼は帰ってしまわれたのですが。
風さんと誰だったかよく覚えていませんが何度かパレ献にも来てくれた独身で日本赤軍兵士の誰だったか救援の個人ミニコミを出していた可愛らしい女性とそれからユセフ檜森の秋田の高校時代に自殺した同級生のお姉さんがいました。
向井孝さんが、共同新聞の記者の方でユセフ檜森の今回の焼身決起のことを月刊雑誌に書いた文章が余りに秀逸だったために「どうして作家にならないのか。」と聞いたら、彼は、「僕は新聞記者ですから。」と答えたのをよく覚えています。でもその時は、その回答の意味がよく分かりませんでした。
隣りで松田政男さんが、意外にもかなり酔っていて、しかし唐突に向井さんに「ぼくをアナキストとして認めてください。」と言ったのを覚えています。ぼくもすでに疲れから一気に酔が回って目の前がグルグル回っていましたが、松田さんがそう言った時には内心驚きました。何故なら松田さんが敗戦後に台湾から家族と一緒に東京に上陸して板橋の自転車メーカーに就職した頃は、まあ皆んながそうだったらしいのですが、日本共産党に入党して職業革命家だったとよく聞いていたからです。
しかし、その時の向井さんの何とも言えない沈黙の表情は僕にとってはもう永遠の謎のような気がしています。ああ、向井さんは僕の私小説の恩人なのです。22歳の時、姫路の自宅で毎月開催されていた「ベトナム反戦姫路直接行動委員会」の座談会に僕は、毎回のように僕自身の書いた小説の習作を見てもらっていたのでした。
僕は、その後すぐに前後不覚で新聞紙の上に倒れて皆んなのビールや日本酒の入ったコップを倒したそうです。
アジンさんはその頃、京王線の何とかという駅前で写真屋をやっていた性で、もともと仕事に対して何か自分に戒めのようなものを持っているなあと思っていましたが、朝が白ける前に先に1人で新幹線に乗ったような記憶があります。
僕はいつも無い物ねだりですが、その時、ユセフ檜森がいたら面白かったのになあとボウッと思ったものでした。

(註・1)「支援連ニュース8月24日号」(第414号)に掲載